或る女の一生。
メヒカーノの心を捉えて離さない、ある一人の女性の物語。
マグダレーナ・カルメン・フリーダ・カーロ・イ・カルデロン(Magdalena Carmen Frida Kahlo y Calderón、1907年7月6日 - 1954年7月13日)は、メキシコの画家。インディヘニスモの代表的美術作家。 メキシコの現代絵画を代表する画家であり、民族芸術の第一人者としても数えられる。
――Wikipediaより引用
…というわけで、フリーダ・カーロです。
美貌の画家、波乱万丈の人生を歩んだ画家、常に肉体の苦痛を抱えて生きた画家、そして華やかな恋愛遍歴を持った画家。
1907年にハンガリー系ユダヤ人写真家の父と、メスティソの母との間に生まれた彼女の苦痛は、わずか6歳の頃から始まっていました。
小児麻痺を患った彼女は右脚の成長が止まってしまう。折しもメキシコ革命の時代、一家が困窮する中で、父親は彼女の治療のためのお金は惜しまなかったけれど、右脚は小さいままだったし、その右脚がからかいの対象になることを止めることはできなかった。そしてこの少女時代は彼女の精神とその後の人生に大きく影響したのでした。
勉学に秀でたフリーダは、父の勧めもあって15歳で国立予科高等学校(大学での研究を行うための準備課程)へ進みます。当時は医者を目指していました。在学中は学校内に形成されたあるサークルに参加し、そして、そのサークルのリーダーと恋人関係になります。
しかしそんな幸せも束の間、16歳のときに恋人と一緒に乗っていたバスが事故を起こし、バスの手すりが彼女の下腹部を貫通、さらに脊髄も含め全身を骨折するという重傷を負う。
この事故により、生涯を通じて手術を30回重ね、コルセットを28個も使用した彼女。背中の痛みと右脚の痛みが消えることはありませんでした。
そして、この事故こそが彼女の画家としての人生のスタートを切るきっかけとなったのです。
そんなフリーダ・カーロの生家をミュージアムにしたフリーダ・カーロ・ミュージアム、別名『青の家』へやってきました。
住所はLondres通り247番。地下鉄コヨアカン駅から車で10分。歩いた私からのアドバイス、素直にタクシーで行った方がいい。
中に入ると、パペル・マシェ(紙張子)がお出迎え。パペル・マシェは彼女の夫で壁画家の、ディエゴ・リベラが愛した民芸品。
まずは、彼女の絵の展示スペースから。
チケット代と別に、料金を払えば内部の写真撮影も可能(フラッシュ不可)。カメラ持込み料は60ペソ。入場料と大して変わらん…(・ω・`)ということで、私だけ写真を撮ることに。
『スイカ 生命万歳』(1954年)は生前に完成された最後の作品。手前のスイカに「生命万歳(Viva la Vida)」という一文が書かれている。
『ヘンリー・フォード病院』(1932年)。事故の後遺症によるものか、彼女はこの年までに2度の流産を経験している。この作品を見ても分かるように、彼女の作品には彼女が人生で味わった苦痛や負った傷が反映されているのです。
さてこの『青い家』、展示されている作品数自体はそれほど多くないんですが、リビングやキッチン、アトリエ、寝室など、生前のフリーダの生活が偲ばれるようになっています。
2つ並んだ時計は、フリーダとディエゴが離婚・再婚した日を表している…はずなんだけど、あれ?
夫・ディエゴの寝室。このミュージアムにはディエゴの作品も展示されています。
ちなみに結婚当初、二人は別の土地に居を構えていましたが、離婚後フリーダは生家であるこの家に戻り、翌年には復縁をきっかけにディエゴもこの家で生活するようになりました。
フリーダのベッド。彼女のデスマスクが置かれている。そしてこのベッドの天蓋に付けられた鏡こそが、彼女の人生を決めたのです。
16歳のときの悲劇により、フリーダは3か月もの間寝たきりとなりました。そのとき、彼女の母親が取り付けた、この1枚の鏡。
来る日も来る日も自分の顔を見つめ続けるうちに、彼女の中で「絵を描きたい」という欲望が生まれました。
彼女が描きあげたのは彼女の自画像。自分という人間を描くことこそが、彼女にとってのスタートだった。
彼女の最初の絵は事故のあと疎遠になっていた恋人に送られ、その絵に感動した彼との間に恋愛関係が復活するも、それは一時的なもので、結局恋人は去ってしまいます。
彼が精神的な支えだったフリーダは、以降絵を描くことに没頭していくのです。
その後日常生活を送れるようになったフリーダは、1928年から芸術活動のサークルなどにも顔を出すようになり、当時すでに壁画画家としての地位を確立していたディエゴと出会います。
その後それほど間をおかず、周囲の反対を押し切って二人は結婚。その美醜の差から二人の結婚は「象と鳩の結婚」と揶揄されました。
しかしその結婚生活は決して穏やかなものではなく、3度の流産、ディエゴの度重なる浮気、そしてそれに復讐するかのようにフリーダも不倫を繰り返す。彼女の相手にはディエゴの女友達やイサム・ノグチ、ロシアの革命家トロツキーなどがいました。それが彼女にとって、単なる浮気だったのか、それとも愛だったのか。
少なくとも、彼女はそれだけ多くの人から愛されるに足る女性でした。
画業においてもニューヨークやパリで個展を開催し、ルーブル美術館が彼女の絵を購入するなど画家としての彼女の評価が高まっていく一方で、女としての彼女は寂しく傷ついていた。
結局結婚から10年経って、二人は離婚。その後アルコールに溺れるなどして健康状態が一層悪化していく中、孤独を紛らわすかのように創作活動を続けて行ったフリーダ。
とうとう創作活動が困難になったころ、治療のために渡航したサンフランシスコでディエゴと再会。
医師の薦めもあって、彼女の精神的安定の為に、フリーダが出した「肉体関係は持たない。ディエゴからの金銭的援助は受けず、経済的に独立した状態を保つ」などの条件をディエゴが受け入れる形で二人は再婚。
1940年代に入ると、メキシコ国内でのフリーダの評価も高まり、絵の制作だけでなく、専門学校の講師を務めたり、雑誌に寄稿したりと活動の幅を広げていきます。
しかし体は限界にきており、1950年には指先の壊死により右足を、1953年には右膝下までも切断。
以降「生きる気力を失った」(ディエゴ談)彼女は、1954年7月13日に死亡。メキシコで初の個展が開かれた翌年のことでした。
…というわけで、何というか「ボロボロの人生」だったフリーダ・カーロ。
しかしだからといって彼女を「か弱い人間」だと思うのは間違いで、むしろ彼女は強かった。人生の終わりに、「生命万歳」と書けるほどに。
彼女は多くの人との恋愛を楽しんだし、そして自身の悲しみを絵に込めることで強くなった。
情熱は彼女の胸の内に燃え続けていたし、そのことが彼女をより美しくした。
このミュージアムの庭にある東屋では、生前のフリーダを写したフィルムが上映されています。
動くフリーダ、笑うフリーダ。スクリーンの中の彼女は人の視線を引き付けて離さない輝きを放っていました。死後60年が経とうとしている今も、彼女はやっぱり魅力的で、誰かが彼女との恋に落ちている。