リーガの建築・1
快晴のハノイから、相変わらずハノイとまったく関係のない記事を お送りしますhachiheoです。ほんとに今日の空はきれいでびっくり。雲の流れさえ美しかった。
さてリガ、ラトビア語読みでは正確には「リーガ」の空も、美しかったです。北は雲が近い、気がする。
「リガ」というのは“Rīga”のドイツ語読みなんだそうです。ベラルーシからやってきた、ラトビア人およびリトアニア人の祖先であるバルト族が定住したのが紀元前3~4世紀ごろ。そのバルト族の中のクールシ人、およびリーヴ人(バルト族とは異なる民族であり、現在のリーガ近辺の海岸に定住していた)と、12世紀が終わりに差し掛かった頃から交易を開始したのがドイツ人でした。以後、バルトの国と、ドイツとは、切り離しがたい関係を続けていくことになりました。ポーランド占領時代、スウェーデン占領時代、そしてロシア占領時代でさえ。
ラトビアは1920年に一度ロシア、そしてドイツからの独立を果たしているものの、1940年にソ連に併合されるまでの短い春でした。再び独立が宣言されたのは1991年8月21日のことでした(ロシアのクレムリンによる承認は9月6日)。
リーガの街にはランドマークとなる教会がいくつかあります。この地にキリスト教をもたらしたのは、言うまでもなくドイツ人。
冒頭の写真は聖ペーテラ教会の尖塔から眺めたリーガの街並み。1209年に建てられた際には木造だったこの教会、1408年から09年にかけて現在の姿に建設されました(尖塔は1491年に完成)。その後塔の倒壊、火事、落雷、第二次世界大戦と何度も不幸に見舞われ、最終的に1968年から5年の年月をかけて、鉄骨で補強された現在の尖塔が完成したとのこと。ちなみに1721年に起きた落雷による火災では、ロシアの初代皇帝・ピョートル1世自ら消火活動にあたったとか…?
そんな聖ペーテラ教会の正面。
教会内部。いくつも掲げられた紋章の中で、左手前のものが一番可愛くて好きでした。イノシシ2頭。ルターの横顔のレリーフもありました…うん、あれはルターだと思うんだ…が…。
教会の尖塔の天辺に雄鶏が付いているんですが、教会内部には先代コケコッコが保存されています。でかい。
教会後方。正面から見たのとはえらく印象が異なります。
尖塔には、2階まで階段で上がったあと、エレベーターで一気に昇ります。この教会入場料+尖塔入場料を含めた切符が結構高くて、1人7ユーロだったよ、確か。でもここは登っておいたほうがいい。
ラトビアは今年1月からユーロを導入しており、現在はユーロと元の現地通貨であるラッツが併用されている状態なのですが、外貨からの両替はユーロのみ対応なので、外国人旅行客がラッツを使用することはまずないと言っていい。日本で2014年6月現在出ているラトビア関係のガイドブックではすべてラッツ表記になっているはずなので、こういった施設入場料については事前に正確な値段を知ることができないんですよね。ちょっと不便。
こちらはリーガ大聖堂(ドゥアムス)。入場料3ユーロ。
元々は普通の教会だったものが、「大聖堂」と呼ばれるようになったのは1254年のことで、現在の姿になったのは1880年と比較的最近。バルト最大の大聖堂は、改装と増築を繰り返し、13世紀のロマネスク様式、15世紀のゴシック様式、18世紀のバロック様式、20世紀初めのアールヌーヴォーとさまざまな様式の集合体となっている、とのこと。たとえば、この教会の尖塔はバロック様式、入り口ホールがアールヌーヴォー。
写真最奥の祭壇部分が、アーチ型天井と半円形の窓が並ぶロマネスクで、手前の星型天井などはゴシック。
バラ窓が美しい!
こちらの大聖堂の白眉は、なんと言ってもステンドグラス。19世紀末から20世紀初めにかけて、リーガ・ミュンヘン・ドレスデンで製作されたもので、聖書とリーガの歴史がテーマになっています。下の写真は「ステンドグラスの寄進者と聖母マリア」、そして「アルベルト司教の聖堂建立」。アルベルト司教はドイツ人居住区としてリーガの街を建設した人です。
こちらのパイプオルガンは、世界で4番目に大きいもの。パイプの数は6768本、長さは1.3cmから10m、音域は9オクターブ半。現在のパイプオルガンは1884年製(初代は1601年)で、1601年、1681年、1773年に造られたというフレームに収まっています。
頻繁に コンサートが開かれるこの大聖堂、実際ソ連時代に宗教活動が禁止され、コンサートホールに使用されたという歴史があります。この日も(たぶん)コンサートの練習が行われており、2人の女性の歌声が、大聖堂いっぱいに響き渡り、多くの人が椅子に腰掛けて酔いしれていました。
エチオピア生まれの聖人・マリティウス、かな?
聖堂併設の修道院(1773年の建設)は現在、リーガの歴史博物館になっています。結構展示が雑。
明るい中庭。疲れた体をここのベンチで休ませる人もちらほら。
参考文献:原翔(2007)『ラトヴィア』(バルト三国歴史紀行 Ⅱ)彩流社